意識・魂の純化と刺激

人生

以前に生きる目的を、意識、魂の純化をすることと書きました。

それこそ死んでも持っていける真の財産だと書きました。

しかし私は日常の出来事に追われ、そのことを普段あまり意識していませんでした。

そして先日来、そのことを意識する出来事が起こりました。

先日レンタル漫画をしているお店で、レンタルし終わった漫画を格安で販売していました。

私は試しに1冊 買ってみました。

するとこれが面白い。

続き物だったので、その後20冊ぐらいをまとめて買いました。

しかしこの漫画が、どうもこれまでの生活に変化をもたらしました。

その漫画は、事件、殺人、ポルノチックなシーン、ノンストップな展開、ととても刺激的でした。

するとそれまで自分の意識にのぼらなかった、女性のポルノチックなヌードを見たくなったり、カップ麺や スナック菓子など、ジャンクな食べ物を、食べたくなったりしました。

そしてその漫画という小さなきっかけ、刺激から、そうしたものを摂取する行動に移りました。

今冷静に振り返っているのですが、とても堕ちていった感覚がします。

純化していった意識が、それにより汚れた感じがしています。

波動の精妙さが、すごく荒くなった感じです。

小さな変化や小さな刺激の変化に違いに気づけない、そんな感覚です。

これではいけない、と感じました。

10巻ぐらい読み終わったこの漫画は、残りの10巻は読まずに全て処分することにしました。

刺激というものは微妙なものですね。

最初の小さな刺激が、大きな意識の変化をもたらすきっかけとなる。

小さな刺激こそ、気をつけるべきものかもしれません。

自分がどんな刺激を受け入れるか、それは吟味すべきものかもしれません。

何でも最初は小さな きっかけです。

何気ない刺激、きっかけが、大きな変化をもたらす引き金となる。

注意する必要があるような気がします。

私は今再び、意識、魂の純化ということに意識を向けることにしました。

これらの純化に終わりはありません。

これらが純化すればするほど、意識、魂の受振発振が精妙になる。

そうすると、人生に起こる出来事もより質的に高度になる気がします。

人生が味わい深くなる。

我々は意識したものしか見えていません。

意識しなければ目の前にあっても見えていないのです。

普段から精妙な波動を受けていても、自分の意識が純化しないとキャッチできないのです。

出来事として起こらない。

変化に気づかない。

日々の自然の変化にも気づかない。

以前雨の日のあった次の日の晴れた朝に、野付牛公園を歩いていると、年配の女性がカメラを携えて写真を撮っていました。

挨拶して何を撮っているのですかと話しかけると、雨のしずくののった葉っぱを取っているのです。

私はそれが美しいと感じるのです、と言われました。

私はそういうものを美しいと感じるその女性の感性は、とてもいいなと感じました。

そしてそういう感性の人と出会えた、私の意識もいいもんだな、と感じました。

私の意識 、魂が、そういう感性を持つ女性とマッチしたような気がしたのです。

起きる出来事は、自分の意識、魂相応、そう感じます。

その漫画との出会いも、意識、魂の純化を再度意識する、気づきとなりました。

意識の純化が損なわれた気がしてましたが、それも次のステージに行く踏み台のようなものです。

かがんでジャンプする踏み台。

そんな気がしてます。

意識の純化とは、あり方の変化だと思います。

自分のあり方がどんどん変わっていく。

あり方が変われば、自然と行動も変わってくる。

DO変える前に、BEを変える。

そういうものかと思っています。

あなたはどういう意識で人生を歩むのでしょう?

人は好むと好まざるとにかかわらず、人生を生きるにおいて、自分の意識が問われています。

常に納得できる意識状態でいたいものです。

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